
この震災によって神様が巡り合わせて下さった
主の器、Thomas Davis先生の教会、
アンバサダーキリスト教会で礼拝をしました。
先生に初めて会った時に
この教会がどのように建てられたのかを
聞きました。
先生方は日本の地図を前に祈ったそうです。
そして主が指示した場所がいわきだったそうです。
それだけを信じ、家族みんなでこの地に来たそうです。
誰も知らない土地で頼るものもなく、
ただ主を信頼してきた証を聞いて感動しました。
私達もアメリカで明日どういきるか分からない
状況の中で学んできました。
時には車もなくなり、電気もなくなり、
最後には住むところまでもとられる経験を
してきました。
ただ主を信じるしかない状況がどれだけ
大変かを体験してきましたので、
先生方のご苦労が心にしみました。
震災後、地元での仕事をなくされ、
教会員の方々もそれぞれの事情で
ゼロになってしまったそうです。
時にはもうここではないのかと
思ったこともあったそうですが、
主からの導きをもう一度頂き、
ここから新しく始めようと
決心をされているところでした。
そんなときにデイビス先生が
第一としていたのは、
有効的な宣教方法でもなく、
能率の良い手法でもなく、
聖霊の導きと礼拝でした。
そのことをブログに書かれているのを
見た時に主が私に語りかけて下さいました。
Down to Worshipのみんなで楽器を置き、
ただ礼拝を受けることをしていました。
そして同時に主に導きを求め祈っていました。
私達にはわかりませんでした。
どうして、賛美を伝道の一環としてではなく、
賛美を若者が集まる良い手法として用いるのではなく、
賛美を自分の賛美の仕方として集会をするのではなく、
ただ、賛美を主のためにあるものとすることを
目的とする必要があるのかを。
でも、このとき主が答えを下さいました。
私達、Down to Worshipは3年間それをしてきました。
受けることをしてきました。
神様を神様として礼拝する賛美を目的としてきました。
それを共有する仲間を与えて下さいました。
これは私達から始まったことではありません。
全ては主です。
いわきの地で先生方の思いと共に
沢山の痛みがある場所で神様を神様として
賛美、礼拝を捧げました。
涙なく賛美ができませんでした。
痛みを持って主の前にみなで出ました。
そこには主がおられました。
揺るがない希望である主がおられました。
先生が言いました。
どこへ行くかは分からない。
でも問題はどこへ行くかではない。
どこへいくかわからないこの道を
楽しむことだ。
なぜなら、そこに主がおられるから。
そこに主がおられる、
主と共にいることができる
主の愛の中で生かされていることを知ることができるから。
先生のその言葉は私の魂を揺り動かしました。
先生は主にあって全てを良しとされていました。
それは主が希望であり、主が人を導き、
主がことをなして下さるということを
信じている信仰がそこにありました。
それをこの痛みのあるいわきの地で言える
先生の信仰は素晴らしいと思いました。
そこは聖なる場所でした。
愛の溢れる、人を遣わす力がそこにありました。
私達の祈りが『助けてください』ではなく、
『主よ。私を遣わして下さい。』という
祈りに変っていく経験をしました。
またお伺いすることを約束して帰りました。
いわきの地で主を礼拝する大切さを
教わった気がしました。
Down to Worshipとして主が導いてくださった道を
これからも歩み続けていきたいと思います。
それがどうしてかはわからない。
ただこの道を主が真実で良き方であるという
ことにより、信仰をもって進んでいきたいと思います。